一体何の呪文だと思われる、この日本訛りのドイツ語こそ、第九の「歓喜に寄す」で有名な歌詞である。
この歌を、歌わずにずーっと叫ぶという、斬新な歌い方をする人がいるとは、誰も思った事もないだろう。
だが、マウスキーの背後にいた人は、正しく堂々たる風格で、音程なしのシャウトをし続けた。
そして、ついにきた・・・「ガーンツェーン・ヴェルト!」。
真後ろで聞くというのも、かなり厳しいものがあった。
正直に言おう。
これだけ、人の声を聴いたり、気にしたりしている時は、自分自信も歌えていないのだ。
リハーサルが終わった後、姉マウスキーに散々に非難を受けたのは、他でもない、マウスキーだった。
「お前こそ声を出していなかった。本番でも、後ろのヴェルトおばさんの叫び声を聞いて歌わなかったら許さんで」──このように責められた。
確かに、本番では許されないだろう。
だが、今までは、ここぞというインパクトの強いところで叫んでいる声しか聞いた事がなかったのだ。
それが、リハーサルではフルで全ての叫びを聴かなければならなかったのだから、動揺しても仕方がないはずだ。
それにしても、周囲の人は、「歌わずに叫んでいる人が混じってない?」とか、「叫び声がすごく迷惑だよね」とか、「歌いにくくて死にそう」などと言っている人は誰もいないのだ。
まさか、偏執的にこだわっているのは、マウスキー姉妹だけなのか?
もちろん、答えはすぐに分かった。
第九に一緒に参加していた、姉マウスキーの友人のTさんも、叫ぶおばさんの近くで歌わなければならなかった人であったからだ。
Tさんは、後ろの方で歌っているので、実物を目撃した事はなかったようなのだが、どうやら服装で想定する事が出来たようだ。
そして、証言を聞いてみたところ、叫び声は彼女の耳にも入り、厳しい状況を同じく感じているという事も判明したのである。
やはり、厳しい状況に立たせられているのは、マウスキー達だけではないではないか!!
まぁ、しかしだ、しかしである。
叫ぶだけのおばさんならば、許せるものではないか?
少しばかり心が狭いのではないか?
そんな風に思う人もいるだろう。
確かにそうかもしれない。
叫び声を聞きたくないならば、自分が頑張って歌ってかき消せばいいだけの話だ。
つまり、根本的な問題はそんな事ではなかったのである。
問題なのは、人柄だ。
その叫んで歌うおばさんの人柄がチラッと垣間見えた時、それは、最後の遠し練習の時であった。
ただ通すだけではなく、指揮者先生が最後の指導をしてくれる、貴重な時間だ。
しかも、とても素晴らしい人柄の指揮者先生で、「この先生のために頑張って歌いたい」、「先生が表現しようとしている音楽に少しでも近づくために努力したい!」と、怠け者のマウスキーですら、心を動かされてしまうような人物だったのだ。
その素晴らしい指揮者先生が指導をしてくれている最中である。
叫びのおばさんが、ひそひそ声で後ろの人間と話をし始めた──。
つづく。
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